| 人生を取り戻す 大地と月と豊かさについて 2007年のヴィジョンとプロジェクト カルロペトリーニ |
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3) 新しいガストロノミー ガストロノミーという言葉について、それが一般的に使われるようになった19世紀の初頭前後からの定義を調べてみると、特に食べ物の選択という局面に関係づけられていることが分かる。もちろん19世紀初めに、晩餐会または貧しい食卓のために食品を選ぶということは、経済的な制約、輸送可能性、保存など現在に比べていろんなものに制限されていただろう。環境問題などについては、地域的に特別な接点がない限り、誰も話すことはなかった。今日食について語ることは最大の優先事項である。喜びをもって十分に栄養を取ることを超えて、新しい可能性と食の世界システムによってもたらされた、あらゆる付加的なものがやってきた。 しかしこれらの可能性は、新しい責任をもって扱わなくてはならない。食べるという行為はより生産的行動と理解されるべきである。ある食品を食べるということは、ある特定の生産システム、輸送システム、流通システムを支持することにつながるということである。サヴァランが「味覚の生理学」1825で語るように、食材を選ぶという行為が、たくさんの知識を必要とし、さらには私たちの知識と食文化をどれだけ豊かにしてくれることかということを、今世紀の責任ある人間として付け加えておきたい。 以下引用 「ガストロノミーは食する人間のすべての所作に関係している知識のことである。ガストロノミーこそが、ブドウ園の農民を、漁民を、数知れない料理人の家族を養っているものである。実は彼らが食を供給しているという事実を覆い隠している呼称である。ガストロノミーは食材の滋養に順番をつける意味で自然科学に属している。そしてあらゆる分析を課することで物理学に属している。味覚的に心地良いものにするための技術という意味で料理法に属し、より良い値段で仕入れをして、より良く売りさばくための方法を考え得るという意味で商業にも属している。ガストロノミーが財政資源であるという意味で、諸国間の交換手段という意味で政治経済に属している。」 引用ここまで この時代に書かれたものとして、驚くほどモダンな定義をしている。現代の私たちにも十分通用するものである。スローフードの会員として読み返してみてもらいたい。この文章は持続性と公正さ、喜びに立脚し、収入の多少にかかわらず有効で、発見や感覚分析、生物多様性の保護、世界の農民の誇りを語っている。まさに私たちのために書かれたようにぴったりと合っている。私はこれを「おいしく、クリーンで、正しい」の中に再度使ってみて現在性を与えてみたのである。少々長いが、ここへすべて引用することをお許し頂きたい。 ガストロノミーは食する人間のすべての所作に関係している知識のことである。品質とは何かということを知るために必要なものであり、選択をするのに必要なものである。ガストロノミーは造詣の深い喜びを与え、喜びのある知識を得させてくれる。食する人間は文化そのものである。はじめは物質的な意味で、やがて非物質な意味で、ガストロノミーは文化である。選択をすることは人類の権利である。ガストロノミーは自由な選択である。喜びはすべての人間の権利であり、その意味でも責任をもって対応しなくてはならない。ガストロノミーは創造であり破壊ではない。知識はすべての人の権利である。しかしそれは同時に義務でもある。ガストロノミーは教育でもある。 ガストロノミーが属するのは次の学科である。 - 植物学、遺伝学、他の自然科学 食物の滋養を順位付けすることで、そしてそれを守るため。 - 物理学と化学 より良い食品を選択し、加工をするための研究において。 - 農業、畜産学、農学 よりヴァリエーションのある良い食材の生産において。 - エコロジー 生産し流通させ、消費するために、人は都合の良いように自然を利用し、加工するため。 - 文化人類学 人類の歴史についての研究、文化的アイデンティティにおいて。 - 社会学 人類の社会的行動を研究するためのツールを提供することから。 - 地政学 地球の資源を得るために人々は同盟したり、戦ったりすることから。 - 政治経済 ガストロノミーが提供する資源という意味で、各国間の間で決められる交換方法によって。 - 商業 ガストロノミーによって消費(利用)されるものを、より良い価格で入手しようとすること、売るもの(生産)をより良い価格で売りさばこうとすること - 技術、産業、伝統技術 新しい加工方法やより良い方法で食品を保存すること。 - 料理 食べ物を準備し、味覚を心地良いものにする技術。 - 生理学 美味なるものを認識するための、感覚を発展させる能力という面において。 - 医学 どのように食すると健康に寄与するかという研究において。 - 認識論 畑からテーブルまでの食べ物の道のりを研究する科学的方法を洗練させ、それにかかわる諸知識を動員し、グローバリズムに陥った複雑な世界の現実を理解するのに役立ってくれる。 - ガストロノミーは資源が許す限り、より良い人生を約束してくれ、自身がより良く存在するために、惜しみなく与えてくれる。ガストロノミーは幸福を研究する科学である。世界言語であり、自発的で、アイデンティティ形成の要素である食を通して、もっとも有効な平和の使者となるであろう。これが新しいガストロノミーである。これが私たちの3回目の脱皮を約束してくれるものである。古典的なエノ・ガストロノミーからエコ・ガストロノミーへ、そしてネオ・ガストロノミーへ。このオペレーションは我々の運動のすべてのレベルで行なわれるべきもので、ガストロノミーに対してきちんとした尊厳を取り戻し、重要性を持たせるために重要なオペレーションになるだろう。食科学は食の戦略的重要性を生活の中心に持ってくるために役立つ。このことは誰かのライフ・スタイルを変えるかもしれないし、世界のバランスを良くするために、ほんの少し役立ってくれるかもしれない。これらは喜びや楽しさを捨てることなしに行なわれなくてはならない。なぜならこれらは健康と幸福を構成する決定的な要素だからである。「新しいガストロノミーは幸福を追求する科学である」 4) 我々の求めるクオリティとは 生活を取り戻そう。大地を、月を、豊かさを取り戻そう。ガストロノミーとは: 革新的概念であり、我々の過去と、我々の生きているあらゆるコミュニティの過去と伝統に深く根を下ろしている。ここまで我々が望んでいる計画や理想などを陳列してみた。地球が被っているダメージや、リスクを負っている長い食の歴史を軽減するために何かをしようとする、シンプルで日常的な試みを表してみた。しかし計画は日常的レベルで行動に移されなくてはならない。シンプルで自発的な何かに解釈されなくてはならない。私たちの人生の選択において、深い影響を与えるものにならなくてはならない。 1年以上も前からスローフードが考える食のクオリティというものを定義し、それをに短いフレーズで表現することを考えてみた。それは変に矮小されたものではなく、世界の多様性に対応できるような柔軟性を持ったものである。我々が考える品質というものは完全な形体のものである。食生産、加工、流通、消費に常に関係するクオリティのことである。それは法律規範のようなものではなく、片意地を張って守るほどの教義でもない。少しずつ実現に近づけて行けるような理想である。より多くの人々を巻き込みながら、世界の食を改善しようとするものである。そこで私に浮かんだのが、美味しく、クリーンで、正しい、という互いに密接に結びついた、ある道筋を示すような、私たちが食に望んでいるすべてのファクターを示すような3つの条件である。この直接的な、ほぼ生乾きのメッセージが、どうして人々に共有されるものになり得るか、メッセンジャーとなることを希望する我々の会員を通して世界中に伝播することができるのかということを、思い出していただきたい。クオリティの高い食はスローフードに寄れば次のようなものである。 - おいしい おいしいという概念は、スローフードに歴史的に密接な関係を保って来たものである。そして「喜びの権利を守る」というモットーのもとに行われた、この小さな革命に密接に結びついて来たものである。おいしいとは食べ物や飲み物の五感に訴えるような特徴が秀でていることを表している。おいしいと感じるのは感覚を磨くことによって知覚可能になるものである。だから味覚を鍛えるための絶え間ない教育を通じて、食品添加物の洪水によって、世界レベルで行われている食品のホモロゲーション化から、この「情報化社会」でおいて日常的に身を置いている刺激の強い社会の中において、我々の感覚を呼び覚ますということである。 認識し、味わって、試食して、理解する。自分が食べる食品がどのようにできているかを知ることは、他のものよりこっちの方が美味しいということを理解する手助けになってくれる。しかし最終的な判断をするのは、専門的に注意深く研ぎすまされた私たちの五感である。五感に訴える美味しさというのは、根本的に重要な条件である。それは自分を害するようなものを食べるということがないことでも分かるだろう。食べ物は人間が存在し始めてからずっと祭りであり喜びである。食べるという行為は、それが本来表現すべき文化もアイデンティティも社会性もなくして、栄養補給のためだけに行われるものであってはならない。美味しさを取り戻すというのは、喜びの権利を取り戻すということだけではなく、自分たちの存在のあり方、伝統、アイデンティティを取り戻すということを表している。私に取って美味しいものが、他の文化をもった世界のまったく違った場所からやって来た人間にも美味しいことがある。これは美味しいということが、どれほどアイデンティティを形成する要素になっているかということを教えてくれるし、美味しい食というものが、食のコミュニティに対しても、ヨーロッパ中心の判断を避けることがどれだけ重要であるかを、我々スローフードの人間にも示している。 多様性を尊重すること 長期的な目で見れば、これも私たちの長期的な行動規範である。あるコンテクストの中で美味しさを理解することは、古典的なガストロノミーの典型的な美味しさをプロモーションしようとしなくても、エリート的なものに陥ったり、絶対的な秀逸さ、近づくことができないようなものになってしまったりする。 私たちが考える美味しさとは、あらん限り民主的で、誰の手にも届くもの、日常生活において賞味されるものでなくてはならない。美味しさについての客観的な判断があるとすれば、それは比較することで初めて可能になるものである。例えばプレジディオを選んだり、他の文化に接近しようとする場合は、特に主観的な判断に気をつけるべきである。 しかしながらこの意味でスローフードは良い条件を揃えている。なぜなら世界中に何が美味しいものなのかを教えてくれるような、コンヴィヴィウムや食コミュニティが存在するからである。ここでもまた我々の意図するもの(喜びの権利、その保護、感覚教育)が、各モデル(試食、味覚ワークショップ、生産者からの直接の知識)に変化を遂げ、地域ごとの様々な現実に適応している(すべての言語と文化における頽廃してしまったおいしさ)。私たちは美味しい食をリサーチし、発見し、生産しまたは生産を鼓舞する義務を課されている。それは選択を可能にし、指標になるようなモデルを提示するためである。 クリーンな 最初の概念である「おいしい」と2番目である「クリーンな」との間にあるつなぎ目は、食べ物のナチュラルさというものである。ナチュラルな農業からやってくる、材料の特徴を尊重するような食品(加工しないということではなく、妥協をしないということ)で、加工食品であれば自然にないものは使わないという心情のもとで、その食品はフレッシュで季節性を尊重し、地方性を保持した間違いなく美味しい食品であろう。 自然性の指向というのは、ほぼ必ずと言って良いほど、持続性のある生産過程をたどるもので、環境により優しく、汚染の少ないものという方向性を持っている。完全なクオリティのための2番目の条件は、まさしくこのエコロジー的であるということである。 食品がクリーンなものであるためには、それを製造するすべての過程において、生態系と多様性を尊重するものでなくてはならない。さらには生産者と消費者の健康を守らなくてはならない。このために工業化された農業に、単一栽培に(有機であっても)、遺伝子組み換えに対してNOと言おうではないか。このために意味なく遠くへ運ばれる食品に対して、生分解しない過剰な包装に対して、流通プロセスや加工の過剰な集中化に対してNOと言おうではないか。クリーンなという概念は、非常に不安定なものである。さらに完全に持続性のある食品というのは困難である。テーブルに食品がのるまでに、どれだけ汚染したかを計算すると、家の近くで作られて近くのマーケットで生産者から直接買った現行農業による食品が、家から何キロも離れたショッピングセンターへ車で行って買った、他の大陸から飛行機で輸入された食品よりも「持続性のある」ものであることもある。 細かく規定されたライフ・スタイル、ラベル、生産物の「高尚な」面にとらわれないようにしよう。生産・消費過程に注意を向ける方が良いだろう(通常それがより短いことが持続性を保証してくれる)。この複雑なコンテクストの中で、我々の、生産者の、地域の、大地の限界を、良識を持って理解しよう。地域のものだけを食べようというのは、北ヨーロッパのサミーやアラスカにすむ人々の生活を困難にしてしまう。例えば有機食品のみを食べようとする試みは、生物多様性に対して有害な、工業化有機農業を生み出すだろう。それは(大陸間の大輸送などで)大規模に集中化されて、公平さを欠いてしまい、有機認定を取るための官僚主義に耐えられない生産者に対して、意味のないものになってしまう。コンヴィヴィウムの中で、各種活動の中で、日常の食品を選ぶ作業において、地域的な制限を設けようではないか。それを良識を持って遵守しようではないか。つまり「クリーンな」を絶対的な教義にしてしまわないということ。しかし私たちのエコガストロノミーという目標に合致した、指標、賢明な選択と解釈すること。地球は「クリーンな」製品を、躊躇なしに選択することを我々に命令している。これはどんな場合でも優先しなくてはならない。 しかし絶対主義的に「美味しい」「クリーンな」食品を選ぶということではないということを強調しておきたい。つまり2つの製品があったら、よりおいしく、よりクリーンな製品を選ぶということを提唱するものである。より多くの情報が我々に提供されるように働きかけよう。どれがより良いものなのかを判断することができるように。可能な場所ではクリーンな食品をより評価できるようにするために。 - 正しい クオリティの高い食品であるために、欠かすことができない3つめの条件は、正しいということである。食品生産の環境で「正しい」とは、社会正義、労働者の尊重、彼らの技術、田園風景、農村生活、妥当な生活条件、労働に対する適切な報酬、アクセス可能な価格設定、良いものを作る喜び、クオリティの高いものを消費する喜び、農民イメージからの脱却、バイオ海賊行為に対する種子の所有権利などを表している。 これらを示唆してくれたのはテッラ・マードレである。「正しい」食品のリサーチは、優先的に行われなくてはならない。なぜなら我々の食を生産している人々が、大変な困難をくぐり抜けながら、社会の最下層におかれている現状は、もはや考えられないからである。この「正しい」というアイディアの周りにあと2つの重要な概念が関係している。それは社会的持続性と経済的持続性である。社会的な観点からは世界中の生産者の労働状況を解放することを意味している。世界に存在する大きな不公正さにバランスをもたらすということである。それは政策レベルで圧力をかけながら、ある農産物のダンピングを阻止したり、土地を持たない農民たちが、もはや自分たちの手の届かないシステムによって、歯車のように働かされてしまうことを阻止することを意味している。 このためには新しい農村のありかたというものを考えなくてはならない。それは幸福な場所であり、生き生きとした文化が根付いている場所であるというイメージを再構築するための努力もしなくてはならない。それが汚染された土地での寂しい産業になり、大量生産の製品しか生み出さず、牧歌的だが不毛で、都市に住む者のベッドタウンとしての機能しか発揮できないのではいけない。 社会的持続性はグローバルなレベルでも地域レベルでも追求されなくてはならない。これを国際協会としても、それぞれのコンヴィヴィウムのレベルでも努力することができるだろう。一方、経済的持続性は我々にとって新しい挑戦である。より自然と協調しながら人間の必要としているものとのバランスを取るという、新しい経済を考案することである。より高貴で、あまり功利主義ではない、商業の新しいアイディアを普及させるというもの。公正さと団結心をもってそれを再定義するということ。困難な状況にある生産者に援助とサポートをもたらすようなもの。これは一つの時代に渡って行われるべきもので、私たちがネットワークの力で実行に移すことができるものである。 特にここで我々が提示することは、ミクロ農業経済、生産者と消費者とを近づけること、地域マーケットのための手仕事で作られた製品。これらによって大量生産モデルと利益主義に支配される社会モデルの中で、ことさら理想を並べ立てているのではない。我々が人々に提示しなくてはならないのは、プレジディオや食コミュニティによるオペレーションによって、このような経済が持続性のあるものであるだけではなく、豊かさの源流となり、実現可能な真の健康を表現しているということである。もちろんこの経済は、人間とその労働を尊重しながら、人と社会のために行われるべきものである。それは他人や他の現実を理解するという努力であり、我々の文明のための使命である。なぜかというとネオ・ガストロノミーを信奉するものは、未来のジェネレーションのために、より良い地球を残そうとするものであるからである。 |
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