人生を取り戻す
大地と月と豊かさについて
2007年のヴィジョンとプロジェクト

カルロペトリーニ
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5) どのようにBPGを実現するか。地域経済について

何度も自問自答していた案件がある。それは我々の協会スローフードのようなものが、コンタクトしてきたすべての人々、グループと共に、アイディアを提供したり、日常の作業をすることで、おいしい、クリーン、正しいという方向に、食システム全体を転換させることが本当にできるのかということである。

ここではもう一つの「イデオロギー的」前置きをしておかねばならない。それは我々の行動と思考に影響を与える、現在の支配的な経済モデルを脱出することなしには、何もできないということである。テッラ・マードレの全体集会を前にして考えていたのは、「発展した」国の一員である我々が、システムを変えるための先導をするのは困難であるということであった。我々は残念ながらこの経済モデルに首まで漬かっている共犯者であるためである。一方大部分が「後進」国に属している生産者の多くが、実はいまだ我々に道を示すことができる状況にある。再出発点を見つけ出すための道は、消費と農生産物を再規定するための経済への道である。我々は、のびのびとした本当のサポートをするための、可能性を創出できる作業をしなくてはならない。

「スローの世界」などと命名できる我々の周りで、最近良く使われるようになったのは、間違いなく「ネットワーク」という言葉である。我々はテッラ・マードレを常にネットワークと表現して来た。実務レベルでもそのようになるように、良いサービスを考案・提供し、すべての潜在的な力を食コミュニティとの相互作用で増幅できるようにしたい。

このコンテクストの中に、スローフードの他のすべての要素が組み込まれて行くことになる。それらは「進行係」として、様々なタイトルの関係者、コンヴィヴィウム、レストラン、大学関係者と共に、活力を生み出す役割を果たす。昨年10月のトリノの記念すべき経験を経て、我々の思考と意図が意味すること、深さ、複雑さはずいぶん高度なものになった。テッラ・マードレの関係者にとって、ネットワークという言葉の意味は、もう一つの重要な要素によって更新されるだろう。

つまりここでは経済について、さらにはある変化について語ろうとしている。それはおそらくすでに世界で起こっていることであり、テッラ・マードレが同調することに成功したものである(それともプロモーターをした?)。というのも、食コミュニティを構成している人々こそが、ここでは主人公を努めているからである。経済の新しいアイディアに言及したい。まずは農業経済について。そこでは地域コミュニティとその食べ物、その文化、彼らの習慣や彼らが住むテリトリーが中心に据えられている。市場経済はグローバリズムの波によっても限界を明らかにしつつある。マーケットの持続性のある活動という面においても、豊かさを生み出す方法という面においても。

資本主義社会の古典的な批判者たちだけではなく、世界経済が見かけ倒しの巨人であるということを知っている。またそれを代表するものたちも、「反エコロジー」が「反経済」を意味しつつあるということを理解し始めている。世界農業システムにおいて、工業化や生産物の集中化などによる変化が顕著になって来ているこのような状況において、食コミュニティは、地域経済や自然経済などという言葉が表現するものの輝かしい実例となる。我々は何もないところから議論をしているのではなくて、過去において何人もの経済学者が指摘したように、純粋に物理的な検証をすると、現実に我々は、エネルギーを無駄遣いしながら消費をしていく傾向にあり、消費はエネルギー生産を上回ってしまっている。このような理論は価値判断にあまりに時間のかかるものなので、当時は反対や批判にさらされたものである。
しかし世論は夢想家と言われた人々を評価するようになって来ている。彼らは(現在の追従者もどんどん増えている)経済の低成長や不動状態の重要性を理論化していた。それは未来の健康を気遣ったものだった。エコロジーでバイオで人間的な経済、どんな名前で呼ばれようが、経済活動は本当の意味でのアウトプットを実現しなければならない。それは恵みとゴミによる物質的なものを溢れ出させるのではなく、非物質的なものをわき出させるものである。つまりそれは人生の喜びである。食のコミュニティは通常短い生産/消費ラインを持っている。長いとしても持続性の高いものか、そこに関係している人々がお互いに良く知っているということである。例えばイタリアの生産者マーケット(モンテヴァルキ市場)やアフリカの例(アミアータ・トラオレによるバマコの市)、アメリカのファーマーズ・マーケット、コミュニティ・サポーティッド・アグリカルチャー、フランスのアマップなど、我々の関係したものは数多い。

「地域」コミュニティを定義するならば、その地域の生態系、風景、多様性を調和を保った方法で保護し、プロモーションし、利益をもたらすことを信条とする団体のことである。地域コミュニティは音楽や口承伝統を、伝統家屋の建設方法、その社会性、人間性を尊重し、保護しながら形成されるものである。プレジディオの経験によって、テッラ・マードレの生産者との直接のコミュニケーションによって分かったのは、このようなミクロ経済が良く機能するということ。または生き生きとした、きちんとした見返りのある形で機能するためのすべての方法論をもっているということである。

閉ざされた、自己完結型の、過剰なまでに保守主義なマーケットのことを話しているのではない。
最もモダンな技術も使うネットワーク中の、このようなモデルが意味するものは大変な価値を持ったものであるということである。それどころかその力は計り知れないものである。簡潔に言えば、ここで示そうとしているのは、批評家たちがいまだに支持するものに逆行しながら、これらの経験が単に過去に戻るための試みであるとか、現行システムを無益な方法で批判しようてとしているということではない。これは地球上で、自分自身を尊重しながら、自分の文化、多様性、食の重要性を尊重しながら、新しい持続的な方法で経済活動をすることができるという例証をあげているのである。それはまったく異なったあらゆるコンテクストの中でも、南世界でも北世界でも、田舎でも都会でも実行できるものである。

この地域経済モデルの強みは、コミュニティに、保護すべきコミュニティという考え方に立脚しており、そのコミュニティは我々の計画を実行するための中心地で、ネットワークの中継点であるというだけではない。コミュニティは自身と地域との関係をもう一度つなぎ止める方法であり、その中に住むすべての人々をつなぎ止めようとするものである。コミュニティは自分自身の面倒を見るもので、構成メンバーやコミュニティの場所の面倒を見るものである。私たちの狂気の社会で消えかかっている価値(団結心、気前よさ、他人や多様性に心を開くこと)は、私たちが必要としているものとして回復されるだろう。このような環境において、生産者であることの誇り、良いものを作る誇りは、新しい人の輪と新しい意義をもたらす。

同じことは都市生活者にも言える。共生産者としての消費が感覚を共有させ、土と働く人々の生活への強い共感を呼び起こす。もっと言うならば、コミュニティ同士もコミュニケーション手段を駆使しながら、近代的な出会いを通して、交流を深めて行く。そこで文化と豊かさが育まれて行くであろう。テッラ・マードレの後に、コミュニティが行っている活動を見ていると、すでに新しい近代性の、新しい経済の時代の種を垣間みることができる。自然の経済とでも呼ぼう。そこでは「マーケットの見えない手」の代わりに、大地の母の優しく厳しい手が入ることになる。正しい調和を見つける努力が、我々の人生のクオリティをあげてくれるという事実を鑑み、母なる大地が必要としているものを尊重しようと思う。地域経済の尊厳は自己矛盾するような言葉「持続性発展」を実現するための唯一の方法論となるだろう。本当にこれを実現したいならば、地域経済システムが作り出す、すべての偉大な創造性を支援しなくてはならない。おいしく、クリーンで、正しい食へ我々を導くその創造性に対して、消費者(共生産者と定義したい)は貢献しなくてはならない。国際ネットワークの意義、我々が何度も目標として掲げた、倫理的グローバリズムの意義はここにある。計画性のある地域経済を着想しなくてはならないだろう。それは部分的に考えられるのではなく、ガストロノミーやプレジディオなどの、すでに確立したものや確立されるものに対するものだけではなく、詩や音楽、地方史などの他の表現様式などにも関心の幅を広げて行く必要性とともに着想されるものである。それは「慣習・習慣」などと呼ばれるものでもある。

「地方」というタームはローカリズムと同じ文脈で捉えられてはならない。それは地域に完全に密着し、需要と供給の法則に縛られない経済形態であり、集団による歴史的遺産の表現であるということである。2004年の第1回テッラ・マードレから今日までに我々は何をしてきたか?良い肥料をまき、鋤を使って耕すことで土を準備したのである。今種をまく準備ができたところなのである。この種がテッラ・マードレのネットワークを信頼のあるものにし、実現可能なものとしてくれるのである。それではどんな種をまくべきなのか?それは地域経済を実行するということである。つまり食コミュニティがすでに村や郊外で実現していることである。これこそが地域コミュニティの強みである。これが日常の我々の糧を生産する者たちの強みである。

6) おいしい、クリーン、正しいをどこで実行するか? コミュニティ

先の段落でも先取りしたが、世界を消費する冷酷な法則で作られるマーケットに反するものとして、地域経済または自然の経済を実現できる場所は地域コミュニティである。2004年に食コミュニティという定義をしたとき、我々はこの言葉がある革新的なコンセプトを宿しているということを確信していた。コミュニティは未来への準備をするために役立ってくれる。コミュニティは組織付けされ、ヒエラルキーを重んじる、制度的な社会に対して、不明確さをもって対処する。不明確さこそが我々の強みである。コミュニティはそもそも自由な存在である。そこではファンタジーを行使することができ、創造力を重んじ、勇気を持つことができ、新しい道に着手したり、助け合ったり、権利よりも義務を重んじ、全員の幸せを考えることができる。

そこには競争者も使われるものも消費する対象もない。人はコミュニティの中で参加意識を持って生活を送り、幸せに暮らすことができる。もし不明確さのためにテッラ・マードレやスローフードが我々の手元から離れてしまうのではないかなどと、心配することなどはないのである。それはスローフードのネットワークのほぼ「アナーキー」な要素が、未来を約束してくれると信じているからである。どんな政策も傷一つつけることもできなかった、堅牢なコンクリートのように、スローフードは現在までうまく機能してくれた。それは情緒的知性というコンクリートである。理性的な知性に満ちてしまった世界で、世界中の人々で構成された、情緒と友愛精神に乗っ取った協会を作り上げることに成功した。組織付けに固執せず、自由で、楽しい、それと同時に私たちの未来を構築して行くような、権力構造なしに、少しの知識と、知性、そして大いに味わいのある運動。私たち以上に地球を味わい深いものにできる存在があるだろうか?

コミュニティはヴェンデル・ベッリーが理論付けしたような「地域適合」という概念を実現できるような場であり、コンテクストである。生産と消費、社会生活と伝統を再特定する方向へ進まなくてはならない。それもネットワークが保証してくれた商業や交換活動を捨てずに、地域コミュニティとその機能の強化をしながらである。古典的な定義に寄ると、コミュニティというのは、特定された地域に生活する社会グループであり、その社会の中に内包されるものである。コミュニティは社会に影響を受けるが、それは限られた範囲であって、コミュニティを構成する社会的特徴が均質であることでも分かるように、個人的価値基準や気に入ったものにより感化される(情緒的知性)ものである。社会とコミュニティは社会学的に、社会関係の2つの極として、2つの異なったレベルとして理解されることがあった。かたや交換をする関係づけをもつ個人主義によって規定された社会があり、それとは正反対のコミュニティが存在する。つまり団結力と目的意識によって、普段はそれを認識することさえなしに、構成員の内的な振る舞いに基盤を置いている。それによれば社会はコミュニティの有機的統一に対抗するような、機械的な関係のように定義されていた。

実はこの2つは相反するものではないのである。なぜかというとこれらは共存することができるからである。そしてコミュニティは情緒性と団結力と共に、有益な地方経済と、協会のミッションを実現する場として完璧な規模なのである。そのミッションとは生物多様性の保護から伝統の保護、コンヴィヴィウムから知識の伝達、生産者への尊厳から共生産者としての振る舞いまでである。
つまりコミュニティ精神というものを、我々のネットワークの中に回復させたいのである。食コミュニティの意味について考えなくてはならない。それは持続性のある「おいしく、クリーンで、正しい」食システムを実現するための核となるものである。そしてこの「自然な」モデルが、国際運動として自分たちのものになるように。コミュニティの価値というものを、我々の協会の中に取り込まなくてはならない。コミュニティによって実現される地域経済の価値、機械的ではなく有機的統一を持った精神を取り込まなくてはならない。おそらく協会自体を、コミュニティのネットワークにベースを置いたモデルに対応させなくてはならないだろう。もし地方食の生産システムが重要だと考えるのであれば、その全体としての文脈付けのシステムが重要だと考えるのであれば、コミュニティは実行すべき理想モデルとして現れてくる。

これが2007年メキシコ大会に向けて、特別重要な案件なのである。そこでは世界中の食コミュニティを受け入れるための規範作りをしなくてはならない。おそらく簡単な質問をするところから始めなくてはならないのかもしれない。それは意味を問いただすところから始められる。例えばコンヴィヴィウムという名称は、地方組織形態として十分なものなのだろうか?それとも地方コミュニティの原動力として、生産世界と消費世界とをつなぐ、行政と文化をつなぐ、地域とそこに住む者をつなぎ止める接着剤として見るべきなのだろうか?

この書類の最後に具体的ないくつかの提案の草稿を残そうと思う。でもいくつかのテーマについて熟考していただきたい。我々に何を食べなくてはならないか、どういう存在でなくてはならないか、我々共通の未来について、本当に意味での選択をする可能性を奪われ、コントロール不可能なグローバル化されてゆく、市場経済システムに完全に包み込まれているのであるから、このままで行けば我々は、不完全な人間になってしまう。人生を取り戻そうではないか!
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